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アジタ学徒の問い その1 感想

感想

この文章を読むと、バラモン、修行者の中での講義、集会のようなものがあり、お釈迦様が講師、先生として出迎えられ、その中の代表者としてアジタ尊者が出て来られ質問された場面が想定できます。

 

無明という言葉が出てきて、次に物惜しみ、怠りという言葉出てきます。

初めに無明によって覆われています、と言ってそれってどういうことなのか?と読むと、物惜しみ、怠りが光輝かないことなので、その否定形、物惜しみがない、怠らないという行為が光り輝く行為となります。

Jappāという言葉の英訳はdesire, lust, greed, attachment, hunger

となっており、和訳は欲求、欲望、貪欲、付着、飢え、という意味です。

(このことを見ても、完全な翻訳は成り立たない話だなと思います。)

 

Jappāを釈尊は汚れだとしている。

どんな生命も苦しみを避けたい、大いなる恐怖を感じたくはない。

物惜しみの性格の人は恐怖を避けるために物惜しみをする。

それをさせるのはJappāという行為であり、このパーリ語の記述には命令はなく、学ぶ私としてはそういった生命の法則の仕様を説かれたところであると思います。物惜しみをしている暗い性格の人に与えなさい、と言われると、そういう性格の方は与えることが恐怖になっていて、反発することは考えられます。

そういうパターン、習性に気づかずにいること、怠ることが光輝かないことであると思います。

 

この自縄自縛のシステムだからこそ、その縄を解く力がどんな人にもあり、宗教、宗派、組織、関係なく、どんな人にもオープンチャレンジで開かれた教えであるということでしょう。

他人や神様かなんかに縛られているわけではなく、自分を不幸にしたのは他人のせい、外部に原因を求めるシステムが光輝かないということだと思います。

 

我々は傷ついたり、悩んだりする。

それをするためには、「自分」「私」という受け皿が必要であり、仮に「自分」「私」というものがないとしてシミュレーション、イメージしてみたらどうなりますか?(AがあるときAがある、AがないときAがない。)

物惜しみって、成り立つものなのでしょうか?

ここに書いてある文章は、スマナサーラ長老の法話、各種勉強会や、仕事、学業経験、様々な学んだことから、レンタルして一時的に成り立っているものであって、レンタル理論の切り口で検証すると、どこにも「私」のものなんていうものは存在すらしていません。

そういう見方が仏教的な見方になるのではないでしょうか?

以上

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