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ティッサ・メッテイヤの問い 感想

感想

2016.4.17() 15:0017:00 アラナ精舎にて

ティッサ・メッテイヤの問い パーリ語経典勉強会

超意訳の試みをすると、

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以下のようにティッサ・メッテイヤ学徒は世尊に問いました。

「誰が、この世間で、今ここにおいて満ち足りているのですか?

どんな人にありとあらゆる動揺が存在しないと説かれるのですか?

誰が両極端であることを知り尽くし、中間において、智慧によって、

心が汚されないと言うのですか?

どんな人が偉大なる人であると言えるのでしょうか?

誰が今ここで、貪り求めることを超越したのですか?」

 

世尊は、

「諸々の欲の所縁から手放す清らかで崇高な行いをして、

渇愛を離れ、常に気づきがある者として、

一切の現象を知り尽くし、涅槃に到達した比丘として、

その彼には、ありとあらゆる動揺が存在しません。」

 

「彼は両極端であることを知り尽くし、

中間において、智慧によって、

心が汚されることはありません。

その彼を偉大なる人と呼ばれます。

今ここで、貪り求めることから超越したのです。」

とお答えになりました。

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Idhaを辞書では「ここに」という訳があり、気づきの実践をしている観点、私の理解の点からすると、「今ここ」としました。

勉強会では両極端であることが話題に上がりました。

我々は幸福を目指してはいる。あの人、幸せそうに見える。

だったら素直にその人の幸福を喜べば良いと思いますが、今ここに満ち足りていない状態が、幸福である、不幸であるという両極端の対象を取る、イメージをする。

私達はそのような反応しか知らないということをありのままに観察すること、自覚する実践が、中間において、智慧によってという意味だと思いました。

中間というのはその両極端の対象を取らない道のことであると私は理解しています。

言い換えると、両極端をありのまま観察し、知り尽くすことであると思います。

政治家の偉い人の発言、権威付けられた人の言葉、テレビ、新聞、最近では有名なブロガーの言葉、そういうことに対して私たちは選り好みします。

有名になるのは、欲を刺激するようなこと、炎上するような怒りの対象を取る、両極端な反応が注目を浴びるのでしょう。

それらを作り出すのは心の働きであり、世尊はその働きを知り尽くした上で私達修行する学徒のような(この学徒は優秀なのかもしれませんが)人に法を説いたのだと思います。

 

sati、気づきは漢字一文字で「念」と訳されています。

念というのは今と心とのコンパウンドで作られた、シンプルに考えられた漢字なんじゃないかなと個人的には思っております。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

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