無料ブログはココログ

« ティッサ・メッテイヤの問い 感想 | トップページ | 5.3. プンナカ学徒の問い 1050 »

5.2 ティッサ・メッテイヤ学徒の問い 1049

今月5月の報告からブログの書き手、交替しました。アラナ精舎「パーリ語セミナー」の「見習いコース」に参加している初心者が、復習ノート整理、今後の課題感想メモとして書きます。(皆さまの分析で示された正しい文法解釈を聞き間違えているかもしれませんので、その点、今後ご指摘いただければ幸いです)。

5.2 ティッサ・メッテイヤ学徒の問い 続き

1049. (1042)

【経典文】
So ubhantamabhiññāya,  Majjhe mantā na lippati;  Taṃ brūmi mahāpurisoti,  So idha sibbinimaccagā" ti. (3)

【正田氏訳】
彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何ものにも〕汚されません。彼を、『偉大なる人士である』と、〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」〔と〕。ということで――(3)

【文法的分解】

So(so: pron.3.m.sg.nom.「彼は」)
ubhantamabhiññāya=ubho(ubho: a.m.「二つの」)とantaṁ(anta: m.sg.acc.「極を」)のコンパウンドとabhiññāya(abhijānāti: v.3.sg.ger.「証知して」)の連声,

Majjhe(majjhe: a.m.sg.loc.「中間にて」)
mantā(manteti: v.3.sg.ger.「考慮して」)
na (na: adv.「ない」)
lippati(lipati: v.3.sg.pres.「汚され」);

Taṃ(so: pron.3.m.sg.acc.「彼を」)
brūmi(brūti: v.1.sg.pres.「言う」)
mahāpurisoti=mahā(mahā:「偉大な」)とpurisoti(purisa: m.sg.nom.「人である」)のコンパウンドとiti(iti: indecl.「…と」)の連声,

So(so: pron.3.m.sg.nom.「彼は」)
idha(idha: adv.「ここで」)
sibbinimaccagā=sibbinim(sibbinī: f.sg.acc.「渇愛を」)とaccagā(atigaccati: v.3.sg.aor.「超えた」)の連声"
ti(iti: indecl.「…と」).

【自己流訳】
彼は、両極端を証知しており、〔その〕中間に〔い〕て智慧があり、〔何にも〕汚されていません。〔私は〕彼を「偉大な人」と言います。彼はここで渇愛を超えたのです。と〔いうことで……〕。

【感想】
  「両極端を証知して」と「〔その〕中間に〔い〕て智慧があり」がセットになっているというか、表現を変えて繰り返し説明されているように思いましたが、「証知する」という動詞と「考量する」という動詞は、意味が難しいと思いました。
  前者は、日本語の文字から「証拠をもってはっきりと知っている」という意味かなと思いました。後者の「考量」とか「考慮」は、「究める」という意味につながるそうですが、このmantāという単語は「智慧」という名詞とも関連があるようで、「知識的に知っている」というよりも「真理を究め、智慧がある」という意味かなと思いました。
  これでティッサ・メッテイヤ学徒の問いが終わりましたが、ここまで読む前は、そもそもそれぞれの学徒との問答は、別々のテーマなのかと思っていましたが、何となく、「智慧のある人、光り輝き汚されていない人、今この瞬間に動揺の思いをもっていない人とはどういう人のことか」というポイントで関連付けられているように思いましたので、今後の学徒との問答に、別の角度からのヒントがあるのではないかと注意していきたいと思います。

« ティッサ・メッテイヤの問い 感想 | トップページ | 5.3. プンナカ学徒の問い 1050 »

スッタニパータ 彼岸に至るものの章」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1566194/65601137

この記事へのトラックバック一覧です: 5.2 ティッサ・メッテイヤ学徒の問い 1049:

« ティッサ・メッテイヤの問い 感想 | トップページ | 5.3. プンナカ学徒の問い 1050 »