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2016年5月

5.3. プンナカ学徒の問い 1052

1052.(1045)
【経典文】
"ye kecime isayo manujā, (iccāyasmā puṇṇako) khattiyā brāhmaṇā devatānaṁ; yaññamakappayiṃsu puthūdha loke, kaccissu te bhagavā yaññapathe appamattā; atāruṁ jātiñca jarañca mārisa, pucchāmi taṁ bhagavā brūhi metaṁ". (3)

【正田氏訳】
かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕「彼らが誰であれ、これらの、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですが、世尊よ、はたして、いったい、祭祀の道に怠りなき彼らは、敬愛なる方よ、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(3)

【文法的分解】
"ye(ya: pron.m.pl.nom.「(所のもの)が」)
kecime=ke(ka: pron.m.pl.nom.「誰」)とci(ci: indecl.「いかなる/でも」)とime(imaṁ: pron.m.pl.nom.「これらは」)の連声
isayo(isi: m.pl.nom.「聖者たちは」)
manujā(manuja: m.pl.nom.「人間たちは」),

(iccāyasmā=iti(iti: indecl.「かくのごとく」)とāyasmā(āyasmant: a.m.sg.nom. 「尊者が」)の連声
puṇṇako(puṇṇaka: m.sg.nom.「プンナカが」))

khattiyā(khattiya: m.pl.nom.「王族たちは」)
brāhmaṇā(brahmaṇa: m.pl.nom.「婆羅門たちは」)
devatānaṁ(devatā: f.pl.dat./gen.「神々への」);

yaññamakappayiṁsu=yaññaṁ(yañña: m.sg.acc.「祭祀を」)とakapppayiṁsu(kappati: v.3.pl.aor.「営んできた」)の連声
puthūdha=puthu(puthu: adv.(<a.acc.)「たくさん」)とidha(idha: adv.「ここに」)の連声
loke(loka: m.sg.loc.「世において」),

kaccissu=kacci(kacci: idecl.「かどうか」)とsu(su: adv.「まさに」)の連声
te(so: pron.3.m.pl.nom.「彼らは」)
bhagavā(bhagavant: m.sg.voc.「世尊よ」)
yaññapathe=yañña(yañña: m.「祭祀」)+patha(patha: m.sg.loc./pl.acc.「道において/道々に」)のコンパウンド
appamattā(appamatta: a.m.pl.nom.「不放逸〔な人々〕は」(aは否定の接頭辞));

atāruṁ(tarati: v.3.pl.aor.「超え渡った」)
jātiñca=jātiṁ(jāti: f.sg.acc.「生を」)とca(conj.「と」)の連声
jarañca=jarāṁ(jarā: f.sg.acc.「老を」)とca(conj.「と」)の連声
mārisa(mārisa: a.sg.voc.「我が師よ」),

pucchāmi(pucchati: v.1.sg.press.「尋ねます」)
taṁ(tvaṁ: pron.2.sg.acc.「あなたに」)
bhagavā(bhagavant: m.sg.voc.「世尊よ」)
brūhi(brūti: v.2.sg.imper.「言ってください」)
metaṁ=me(ahaṁ: pron.1.sg.dat.「私に」)とtaṁ(taṁ: pron.3.n.sg.acc.「それを」)の連声". (3)

【自己流訳】
かくのごとく尊者プンナカが〔尋ねた〕、「これらの聖者たち、人間たち、王族たち、婆羅門たちは、彼らがいかなる人でも、神々への祭祀をたくさんここで世において営んできました。世尊よ、彼ら〔すなわち〕祭祀の道に不放逸〔な人々〕は、まさに、生と老とを超え渡ったのでしょうか、我が師よ、あなたに尋ねます。世尊よ、私にそれを説いてください」〔と〕。(3)

5.3. プンナカ学徒の問い 1051

1051.(1044)

【経典文】
"ye kecime isayo manujā, (puṇṇakāti bhagavā) khattiyā brāhmaṇā devatānaṁ; yaññamakappayiṁsu puthūdha loke, āsīsamānā puṇṇaka itthattaṁ; jaraṁ sitā yaññamakappayiṁsu". (2)

【正田氏訳】
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「プンナカさん、彼らが誰であれ、これらの、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは、プンナカさん、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」〔と〕。(2)

【文法的分解】
"ye(ya: pron.m.pl.nom.「(所のもの)が」)
kecime=ke(ka: pron.m.pl.nom.「誰」)とci(ci: indecl.「いかなる~でも」)とime(imaṁ: pron.m.pl.nom.「これらは」)の連声
isayo(isi: m.pl.nom.「聖者たちは」)
manujā(manuja: m.pl.nom.「人間たちは」),
(puṇṇakāti=puṇṇaka(puṇṇaka: m.sg.voc.「プンナカさん」)とiti(iti: indecl.「かくのごとく」)の連声
bhagavā(bhagavant: m.sg.nom.「世尊は」))

khattiyā(khattiya: m.pl.nom.「王族たちは」)
brāhmaṇā(brahmaṇa: m.pl.nom.「婆羅門たちは」)
devatānaṁ(devatā: f.pl.dat./gen.「神々への」);

yaññamakappayiṁsu=yaññaṁ(yañña: m.sg.acc.「祭祀を」)とakappayiṁsu(kappati: v.3.pl.aor.「営んできた」)の連声
puthūdha=puthu(puthu: adv.(<a.acc.)「たくさん」)とidha(idha: adv.「ここに」)の連声
loke(loka: m.sg.loc.「世において」),

āsīsamānā(āsiṁsamānā(<āsimsatiのppr.): m.pl.nom.「希望している〔者たち〕である」備考:主格はāsiṁsamānāという綴りだが韻律の関係で語中のiṁがīに変化したと思われる)
puṇṇaka(puṇṇaka: m.sg.voc.「プンナカさん」)
itthattaṁ(itthatta: n.sg.acc.「ここ[輪廻]の状態」);

jaraṁ(jarā: f.sg.acc.「老いに」)
sitā(sita: m.pl.nom.「依存した〔者たち〕である」)
yaññamakappayiṁsu=yaññaṁ(yañña: m.sg.acc.「祭祀を」)とakappayiṁsu(kappati: v.3.pl.aor.「営んできた」)の連声". (2)

【自己流訳】
かくのごとく世尊は〔答えた〕「プンナカさん、これらの聖者たち、人間たち、王族たち、婆羅門たちは、彼らがいかなる人でも、神々への祭祀をたくさんここで世において営んできたのです〔が、それはね〕、プンナカさん、〔彼らは〕ここ[輪廻]の状態を希望している〔者たち〕であり、老いに依存した〔者たち〕であり、祭祀を営んできたのですよ」〔と〕。(2)

【感想】
  「ここ輪廻の状態を希望している者たち」と「老いに依存した者たち」がイコールの関係だろうと捉えましたが、「老いに依存」という言葉の意味は、どんな人でも(お金持ちでもそうでなくても、社長さんでも普通の人でも)これまでの人生で積み重ねてきた地位・知識・お金・家族・モノなどを抱えてずっと生きていきたい、という願望のことなのかなと思いました。
  こういう願望は最終的に実現不可能にもかかわらず、その事実に向きあわず、とりあえずそのときそういう執着の気持ちが強い場合、特別な宗教的信仰心と関係なく、お参り・お祈りを一生懸命行っているんだろうなと思いました。自分が、観光のお土産以外でお守りを買った時のことを思い返しますと、そういう依存の気持ちがあったように思いました。

5.3. プンナカ学徒の問い 1050

5.3. puṇṇakamāṇavapucchā
1050. (1043)

【経典文】
"anejaṁ mūladassāviṁ, (iccāyasmā puṇṇako) atthi pañhena āgamaṁ; kiṃ nissitā isayo manujā, khattiyā brāhmaṇā devatānaṁ; yaññamakappayiṁsu puthūdha loke, pucchāmi taṁ bhagavā brūhi me taṁ". (1)

【正田氏訳】
かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕「動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。何に依存する者たちとして、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」〔と〕。(1)

【文法的分解】
"anejaṁ(aneja: a.m.sg.acc.「不動の」(a(n)は否定の接頭辞))
mūladassāviṁ=mūla(mūla: n.「根本」)とdassāviṁ(dassāvin: a.m.sg.acc.「見者に」)のコンパウンド,
(iccāyasmā=iti(iti: indecl.「かくのごとく」)とāyasmā(āyasmant: a.m.sg.nom. 「尊者が」)の連声
puṇṇako(puṇṇaka: m.sg.nom.「プンナカが」))

atthi(atthin: a.m.sg.nom.「欲求する者として」)
pañhena(pañha: m.sg.instr.「質問による/とともに」)
āgamaṁ(āgacchati: v.1.sg.aor.「来ました」);

kiṃ(ka: pron.n.acc.「何に~ですか」)
nissitā(nissita(<nissayatiのpp.): a.m.pl.nom.「依存する者たちとして」)
isayo(isi: m.pl.nom.「聖者たちは」)
manujā(manuja: m.pl.nom.「人間たちは」),

khattiyā(khattiya: m.pl.nom.「王族たちは」)
brāhmaṇā(brahmaṇa: m.pl.nom.「婆羅門たちは」)
devatānaṁ(devatā: f.pl.dat./gen.「神々への」);

yaññamakappayiṁsu=yaññaṁ(yañña: m.sg.acc.「祭祀を」)とakapppayiṁsu(kappati: v.3.pl.aor.「営んできた」)の連声
puthūdha=puthu(puthu: adv.(<a.acc.)「たくさん」)とidha(idha: adv.「ここに」)の連声
loke(loka: m.sg.loc.「世において」),

pucchāmi(pucchati: v.1.sg.press.「尋ねます」)
taṁ(tvaṁ: pron.2.sg.acc.「あなたに」)
bhagavā(bhagavant: m.sg.voc.「世尊よ」)
brūhi(brūti: v.2.sg.imper.「言ってください」)
me(ahaṁ: pron.1.sg.dat.「私に」)
taṁ(taṁ: pron.3.n.sg.acc.「それを」)". (1)

【自己流訳】
かくのごとく尊者プンナカが〔述べた〕、「不動であり、根本を見た方に、〔私は〕質問によるお願いがある者としてやって参りました。何に依存する者たちとして、聖者たち、人間たち、王族たち、婆羅門たちは、神々への祭祀をたくさんここで世において営んできたのですか。世尊よ、あなたに尋ねます。私にそれを説いてください」〔と〕。(1)

5.2 ティッサ・メッテイヤ学徒の問い 1049

今月5月の報告からブログの書き手、交替しました。アラナ精舎「パーリ語セミナー」の「見習いコース」に参加している初心者が、復習ノート整理、今後の課題感想メモとして書きます。(皆さまの分析で示された正しい文法解釈を聞き間違えているかもしれませんので、その点、今後ご指摘いただければ幸いです)。

5.2 ティッサ・メッテイヤ学徒の問い 続き

1049. (1042)

【経典文】
So ubhantamabhiññāya,  Majjhe mantā na lippati;  Taṃ brūmi mahāpurisoti,  So idha sibbinimaccagā" ti. (3)

【正田氏訳】
彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何ものにも〕汚されません。彼を、『偉大なる人士である』と、〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」〔と〕。ということで――(3)

【文法的分解】

So(so: pron.3.m.sg.nom.「彼は」)
ubhantamabhiññāya=ubho(ubho: a.m.「二つの」)とantaṁ(anta: m.sg.acc.「極を」)のコンパウンドとabhiññāya(abhijānāti: v.3.sg.ger.「証知して」)の連声,

Majjhe(majjhe: a.m.sg.loc.「中間にて」)
mantā(manteti: v.3.sg.ger.「考慮して」)
na (na: adv.「ない」)
lippati(lipati: v.3.sg.pres.「汚され」);

Taṃ(so: pron.3.m.sg.acc.「彼を」)
brūmi(brūti: v.1.sg.pres.「言う」)
mahāpurisoti=mahā(mahā:「偉大な」)とpurisoti(purisa: m.sg.nom.「人である」)のコンパウンドとiti(iti: indecl.「…と」)の連声,

So(so: pron.3.m.sg.nom.「彼は」)
idha(idha: adv.「ここで」)
sibbinimaccagā=sibbinim(sibbinī: f.sg.acc.「渇愛を」)とaccagā(atigaccati: v.3.sg.aor.「超えた」)の連声"
ti(iti: indecl.「…と」).

【自己流訳】
彼は、両極端を証知しており、〔その〕中間に〔い〕て智慧があり、〔何にも〕汚されていません。〔私は〕彼を「偉大な人」と言います。彼はここで渇愛を超えたのです。と〔いうことで……〕。

【感想】
  「両極端を証知して」と「〔その〕中間に〔い〕て智慧があり」がセットになっているというか、表現を変えて繰り返し説明されているように思いましたが、「証知する」という動詞と「考量する」という動詞は、意味が難しいと思いました。
  前者は、日本語の文字から「証拠をもってはっきりと知っている」という意味かなと思いました。後者の「考量」とか「考慮」は、「究める」という意味につながるそうですが、このmantāという単語は「智慧」という名詞とも関連があるようで、「知識的に知っている」というよりも「真理を究め、智慧がある」という意味かなと思いました。
  これでティッサ・メッテイヤ学徒の問いが終わりましたが、ここまで読む前は、そもそもそれぞれの学徒との問答は、別々のテーマなのかと思っていましたが、何となく、「智慧のある人、光り輝き汚されていない人、今この瞬間に動揺の思いをもっていない人とはどういう人のことか」というポイントで関連付けられているように思いましたので、今後の学徒との問答に、別の角度からのヒントがあるのではないかと注意していきたいと思います。

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