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感想など

メッタグー学徒の問い 勉強会感想

2016.8.7(日) パーリ語勉強会感想
メッタグー学徒の問いでは、“愉悦と固着と識知を除き去って”という所があるが、我々は普段はそれとは真逆のことをしている。目に光のエネルギーが触れ、それを認識した瞬間、心地の良いものであるという対象に飛びつき、その時に起こった感情を繰り返し妄想し、記憶として固定化して、それを追いかけるような生き方をしている。
先入観、こうであって欲しいという思い,イメージ、自分自身のエゴの弱み、そういったエネルギーが原因となり、恐ろしい程の速度、ナノ秒のレベルで対象に飛びついちゃっているのが我々のしていることであると思います。(ナノ秒は10億分の1)
肉体に執着のある我々の弱みをついて、その弱みのある人達のメディアなどが、様々な化粧品、ダイエット食品等々を宣伝し反応して商売が成り立っているのが現代の世界であり、こういったblog等もそういった宣伝の道具になっているのが現実でしょう。
参照脳という言葉を以前の勉強会で聞いたことがあります。今現在起こっている出来事に対して取り組むとき、感覚器官に入ったデータからこのデータに適応したパターンを参照する機能なんだと思います。その衝動的な反応は過去を追いかけている行為であり、怠けであり、その働きに使われているのが我々なんだと思います。このプロセスをありのままに気づき、理解することが大事なことであり、その学び、実践が瞑想と僕は理解しています。
そういった愚かな行為を愚かとして観察することになると思います。
この経典では、”〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者は、世における執着を超えるのです”というフレーズが所々、繰り返し語られているようです。明らかに重要なところやと思いました。
文法の所を参照すると”超えるのです”というのはtareという所で反照態として見ると、自己完結する、自然にという意味であるという解説がありました。
気づきの実践によって、何者かになる、何かしらのイメージを追いかける、到達する、時間をかけて達成するという性質ではなく、自ずと、自己完結的、自然に、向こうから答えが出てくる、発見するという性質であると思います。
そういう訳で、別の切り口に立ち、その言い方を説法なり、よく聞く言葉で言うと、”智慧が現れる”という表現になっているのでしょう。

メッタグー学徒の問いの一部
1060.(1053) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう。〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」〔と〕。(5)

1062.(1055) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらには、また、横に、〔その〕中間において、これらのもの(認識の対象)にたいする、愉悦〔の思い〕と、固着〔の思い〕と、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように。(7)

生きとし生けるものが幸せでありますように。
 

ティッサ・メッテイヤの問い 感想

感想

2016.4.17() 15:0017:00 アラナ精舎にて

ティッサ・メッテイヤの問い パーリ語経典勉強会

超意訳の試みをすると、

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以下のようにティッサ・メッテイヤ学徒は世尊に問いました。

「誰が、この世間で、今ここにおいて満ち足りているのですか?

どんな人にありとあらゆる動揺が存在しないと説かれるのですか?

誰が両極端であることを知り尽くし、中間において、智慧によって、

心が汚されないと言うのですか?

どんな人が偉大なる人であると言えるのでしょうか?

誰が今ここで、貪り求めることを超越したのですか?」

 

世尊は、

「諸々の欲の所縁から手放す清らかで崇高な行いをして、

渇愛を離れ、常に気づきがある者として、

一切の現象を知り尽くし、涅槃に到達した比丘として、

その彼には、ありとあらゆる動揺が存在しません。」

 

「彼は両極端であることを知り尽くし、

中間において、智慧によって、

心が汚されることはありません。

その彼を偉大なる人と呼ばれます。

今ここで、貪り求めることから超越したのです。」

とお答えになりました。

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Idhaを辞書では「ここに」という訳があり、気づきの実践をしている観点、私の理解の点からすると、「今ここ」としました。

勉強会では両極端であることが話題に上がりました。

我々は幸福を目指してはいる。あの人、幸せそうに見える。

だったら素直にその人の幸福を喜べば良いと思いますが、今ここに満ち足りていない状態が、幸福である、不幸であるという両極端の対象を取る、イメージをする。

私達はそのような反応しか知らないということをありのままに観察すること、自覚する実践が、中間において、智慧によってという意味だと思いました。

中間というのはその両極端の対象を取らない道のことであると私は理解しています。

言い換えると、両極端をありのまま観察し、知り尽くすことであると思います。

政治家の偉い人の発言、権威付けられた人の言葉、テレビ、新聞、最近では有名なブロガーの言葉、そういうことに対して私たちは選り好みします。

有名になるのは、欲を刺激するようなこと、炎上するような怒りの対象を取る、両極端な反応が注目を浴びるのでしょう。

それらを作り出すのは心の働きであり、世尊はその働きを知り尽くした上で私達修行する学徒のような(この学徒は優秀なのかもしれませんが)人に法を説いたのだと思います。

 

sati、気づきは漢字一文字で「念」と訳されています。

念というのは今と心とのコンパウンドで作られた、シンプルに考えられた漢字なんじゃないかなと個人的には思っております。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

アジタ学徒の問い その1 感想

感想

この文章を読むと、バラモン、修行者の中での講義、集会のようなものがあり、お釈迦様が講師、先生として出迎えられ、その中の代表者としてアジタ尊者が出て来られ質問された場面が想定できます。

 

無明という言葉が出てきて、次に物惜しみ、怠りという言葉出てきます。

初めに無明によって覆われています、と言ってそれってどういうことなのか?と読むと、物惜しみ、怠りが光輝かないことなので、その否定形、物惜しみがない、怠らないという行為が光り輝く行為となります。

Jappāという言葉の英訳はdesire, lust, greed, attachment, hunger

となっており、和訳は欲求、欲望、貪欲、付着、飢え、という意味です。

(このことを見ても、完全な翻訳は成り立たない話だなと思います。)

 

Jappāを釈尊は汚れだとしている。

どんな生命も苦しみを避けたい、大いなる恐怖を感じたくはない。

物惜しみの性格の人は恐怖を避けるために物惜しみをする。

それをさせるのはJappāという行為であり、このパーリ語の記述には命令はなく、学ぶ私としてはそういった生命の法則の仕様を説かれたところであると思います。物惜しみをしている暗い性格の人に与えなさい、と言われると、そういう性格の方は与えることが恐怖になっていて、反発することは考えられます。

そういうパターン、習性に気づかずにいること、怠ることが光輝かないことであると思います。

 

この自縄自縛のシステムだからこそ、その縄を解く力がどんな人にもあり、宗教、宗派、組織、関係なく、どんな人にもオープンチャレンジで開かれた教えであるということでしょう。

他人や神様かなんかに縛られているわけではなく、自分を不幸にしたのは他人のせい、外部に原因を求めるシステムが光輝かないということだと思います。

 

我々は傷ついたり、悩んだりする。

それをするためには、「自分」「私」という受け皿が必要であり、仮に「自分」「私」というものがないとしてシミュレーション、イメージしてみたらどうなりますか?(AがあるときAがある、AがないときAがない。)

物惜しみって、成り立つものなのでしょうか?

ここに書いてある文章は、スマナサーラ長老の法話、各種勉強会や、仕事、学業経験、様々な学んだことから、レンタルして一時的に成り立っているものであって、レンタル理論の切り口で検証すると、どこにも「私」のものなんていうものは存在すらしていません。

そういう見方が仏教的な見方になるのではないでしょうか?

以上

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